本庄繁長の祖父・本庄時長の生年を妄想してみる

本庄時長の生年

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1489年、1504年、1507年と、越後府中の守護政権や長尾為景に反抗した、揚北の雄・本庄氏。

その当時の当主は本庄繁長の祖父にあたる本庄時長であったと言われていますが、彼の生年については不明ということになっています。

ただ、周囲の状況などを見ると、はっきりした生年の特定は無理でも「だいたいこのくらいに生まれたのでは?」くらいは特定できそうな気がしたので、手元の資料を元に少し考えてみました。
(主に『本庄氏と色部氏 (中世武士選書 第 9巻)』を参照)

本庄時長の生年はいつごろか

以下、自分のTwitter上で行った考察です。

1459年に将軍足利義政から賜った感状の本庄三河守を時長とすると、この時古河公方足利成氏と関東管領の合戦(羽継原(はねつぐはら)合戦)に参陣していたなら少なくとも10代前半以降くらいか
↑『本庄氏と色部氏』 掲載:25P

越佐史料では同じく参陣の色部弥三郎=昌長ということになってるらしいけど色部さんのことはひとまず置いておく。マブダチ色部と出陣する10代の時長は眩しくておいしいけどな!

で、1509年に死んだとして、この時なんとなく60代くらいなイメージがある。残念ながら根拠はないが。時長父の活躍年代が不明なのでこれ以上はわからんなぁ

1509年に60才ぴったりと考えると、1459年には10歳。感状貰う年齢としてはちょっと不自然か。65才なら15才。あり得なくはない。

ただいろいろ考えたけどどうもこの1459年の感状は時長父の三河守房長の時代では?という気がする

15才で当主になってるなら話は別だけども

ただし、感状をもらったのが父としても、時長自身参陣していた可能性はある。とは言えるのではないか。あるいは留守居を任されていたか。

1509年に死んだ時、少なくとも4人の男子はいたわけだから(弥次郎は時長より前に死んでるけど)、どれだけ若くても30~40はいってたと思うのね

すぐ房長が跡を継いでも、「若かったので家中がまとまらなかった」とかが起きてないのでこの時点で房長さんもそこそこな年だったのでは?

房長没1539(40)年→1509年の30年後。当時10代後半としても、房長の没年はだいたい40ちょいくらいか?

(1507年の戦いで戦死した時長嫡子)弥次郎がどのくらい年離れてるかわかんないけどやっぱりこれ時長けっこう長生きしてたのでは?

時長の息子たちは結構生年団子だったのかも あんまり年離れてなさそう

本庄氏と色部氏』の足利義政感状についての部分は以下のとおり。

去年十月羽継原に於て合戦の時軍功を致し、親類被官人数輩、或は討死、或は疵を被るの旨、房定注進到来、尤も神妙、いよいよ忠節を励むべく候也

月 日   御判

色部弥三郎とのへ 本庄三河守とのへ (「色部文書」)

『越佐史料』は、弥三郎に対し昌長、三河守に対し時長と実名を傍書している。

(『本庄氏と色部氏』25P)

時長の生年は1444~1455年ごろでは?

これらの考察をもとに推測される本庄時長の生年とその背景理由について以下にまとめました。

・嫡子弥次郎の没年が時長の前にあたる1507年で、次子の房長が時長没後1509年にすぐ家督を継いでも家中がまわる年齢だった
=1509年当時房長は少なくとも15歳以上だろうと推測
・1509年に次子が15歳以上くらいとなると、長子の年齢は不明だが、少なくとも時長の年齢は30歳以上と思われる
・1459年の感状を貰ったのが時長と仮定すると、1444年生まれであれば15歳前後。出陣する年齢としては不思議ではない
・感状を貰ったのが時長ではなく父・三河守房長だった場合でも、1509年当時時長が男子三人(女子は不明だがゼロ人ではないだろう)を有していることから、この時点でそこそこの年齢なのでは
・揚北衆秩父党の顔役として色部昌長と向かいを張る程度には機能していたようなので、若年とは考えづらい(40~50以上?)
・当時の没年齢的に、65歳以上の高齢で亡くなることは稀

上記から、時長の生年は1444年(享年65)~1455年(享年54)周辺ではないかと推測しました。
永正の乱において、中条氏の軍勢を迎え撃った本庄時長は、すでに老将の域に達していたのではないだろうかと思います。

何か他にヒントや別説につながりそうな内容をご存じの方がいましたら、ぜひコメント欄までお寄せください。

番外:戦国大戦での本庄時長

アーケードカードゲーム「戦国大戦」の一人用ストーリーモード「群雄伝」の、
「長尾為景伝」第二話「下剋上」では、敵方の主役として本庄時長が取り上げられています。

おそらくゲームメディアで本庄時長がキャラクターとして登場するのはこれがほぼ唯一なのではないでしょうか。

戦国大戦での本庄時長は挑発的で反骨精神が旺盛な小ずる賢いキャラクターとして描かれています。

計略発動セリフの、

「下剋上とやらに便乗してみるか!」

は一度きいたらどこかクセになる、味のある中年キャラです。

復活セリフの、

「俺はしつこいぜぇ?」

は、1489年、1504年、1507年の三度にわたる抗戦の示唆でしょうか。

イラストは、本庄繁長を描いた西野幸治氏が同じく担当し、容姿も血縁を思わせるためか若干似ています。

tokinagabirth01

片肌脱ぎにした右上腕には梅に鶯の刺青が描かれていますが、由来のほどは不明。

tokinagabirth02

梅に鶯の言葉の意味を調べてみたところ、

梅に鶯とは、取り合わせのよい二つのもの、よく似合って調和する二つのもののたとえ。仲のよい間柄のたとえ。

故事ことわざ辞典 より引用)

と書かれています。

群雄伝の中に、長尾為景で本庄時長を撃破すると起こるイベントがあり、そこで為景に時長が「この類の男を見誤りはしない」と言われるシーンがありまして、
もしかすると、梅に鶯の意匠は長尾為景と本庄時長が同類であるという匂わせを含んだものなのかもしれません。

(ただし、長尾為景伝が追加されたのがカード追加から一年ほど経過していたので、群雄伝とは関係ない可能性も高いです)

この記事の参考文献

足利義政から本庄三河守と色部弥三郎への感状についての記述

時長と色部昌長が感状を受けた羽継原合戦の碑が、
現群馬県館林市の宝秀寺山門前にあります。

碑についての解説ページ

羽継原合戦についての関連資料レファレンス

◆こちらもあわせてどうぞ

特集「戦国大戦のカード元ネタ調べてみた」

必携!「鮭様」の史実像にせまる決定版『人物叢書 最上義光』のレビュー

長尾為景が天下無二の奸雄と呼ばれるようになったわけ

 

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