最上義光の妻・清水御前がモデル!山形銘菓「三色もなか ごんごさま」

旅と食べ物/歴史・文化1
山形銘菓3色もなかごんごさまの由来

出羽国、現在の山形県は戦国時代、「出羽の驍将」と呼ばれた最上義光(もがみよしあき)の領地でした。
山形にはこの最上義光の妻・清水御前をモデルにした「三色もなか ごんごさま」というお菓子があります。

先日このお菓子を友人から山形土産として頂いたので、由来や最上義光と清水御前について、味の感想と共にまとめました。

「ごんごさま」の由来

「ごんごさま」は、戦国時代山形県を治めていた最上義光の妻・清水御前に由来したお菓子だと発売元の十一屋のサイトに書かれています。

山形城主最上義光公の奥方、清水御前愛用の舞扇を形どり三色とし、それぞれ胡麻・小倉・抹茶餡を詰めた最中です。

山形城主50万石最上義光公の奥方清水御前は人情厚く慈悲の深いお方で、暮らしの困窮な人々に毎日五合ずつの施米を永年恵まれましたことから、誰いうとなく奥方を ごんごさま というようになりました。
現在でも当地方に、その言葉として残り、上流階級の内室を ごんごさま とよんでおります。
このような高徳を常にしのび学ぶ意味で、日常の茶菓にその名を ごんごさま と題しました。

(十一屋公式ホームページより)

パッケージはこんな感じ。
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「ごんごさま」の味

ごんごさまは1パック3つの最中が入っていますが、それぞれ色によって味が違います。

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茶色(普通の最中)はノーマルのあんこ。

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あんこは甘め。

緑色は抹茶あん。

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ノーマルのあんこに比べると甘さは控えめ。
抹茶が妙に主張していないので、やたらと甘い抹茶味は苦手という人でも大丈夫。

紫色はごまあんです。

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個人的に、ノーマル・抹茶と比較してこのごまあんが一番おいしかった。
甘さは一番ひかえめです。
ごまがゾロゾロっとしすぎることもなく、食べやすい。

3つ食べてみて感じたことですが、ごんごさまを食べる際にはぜひ緑茶をセットで飲むとよいです。
ペットボトル緑茶やティーパックでもいいですが、できれば茶葉から急須で出したものだとなおよし。

というのも、結構あんこが甘いので、緑茶の苦味があるとよりおいしく食べれます。
非甘党の方が食べるなら、緑茶ないしはちょっと苦味のあるお茶必須です。

最上義光の妻について

最上義光には、はっきりしているだけで3人の妻がいたようです。

一人目が正妻・大崎夫人。

義光の長男・義康をはじめ、豊臣秀次の事件にともなって助命が間に合わず処刑された義光の娘・駒姫もこの大崎夫人との子と言われています。

駒姫と専称寺~東国一の美女とされた悲劇の駒姫の墓

二人目が継室・清水御前。

三人目が側室の天童夫人です。(正室という説も)

「ごんごさま」のモデルになっている清水御前は、大崎夫人を亡くしたあとに義光の妻となった女性です。
清水御前というのは生家の清水氏からつけられた呼び名であり、彼女自身の名前は「お辰」だそう。

清水御前は誰?義光の子・義康の妻という説も

清水御前とはどういう出自の女性だったんでしょうか?

まずは彼女のの生家である生家・清水氏について。

清水氏は最上氏・大崎氏・天童氏の祖でもある斯波家兼のひ孫・成沢兼義から更に分かれた家ということで、
大宝寺(武藤)氏と最上氏が庄内の領有争いをしているときは主家筋にあたる最上氏に味方していたようです。

清水氏の居城・清水城跡は現・山形県最上郡大蔵村にあります。

GoogleMAPで位置関係を見ると、清水城は最上川のほとりに立っていた城で、最上氏の居城・山形城から見ると北の方面にありますね。

最上氏にとっての清水氏の存在がどういうものだったかについては、

清水氏は、現最上郡南部を領する有力な豪族だった。川が交通路として大きな役割をもっていた時代、最上川中流の清水は、軍事的にも経済的にも重要な所だった。
ここから下れば庄内地域となり、海運の根拠地である酒田、そこから日本海を経て上方へとつながっていく。山形の最上氏にとって、なんとしても自分の支配下におきたいところ、それが清水だった。

「最上義光歴史館」公式サイトの「清水夫人」解説ページより)

とあります。
大宝寺(武藤)氏と庄内の領有争いをしていた最上氏にとって、かなり重要な一族であったことは間違いないようです。

当時、当主・清水義氏には一人娘の清水御前がいましたが、
男子に恵まれることなく義氏は天正14年(1586)に死没。
清水家の家督は最上義光の三男である光氏(のちに義親と改名)を養子に迎えることで継がせました。

「最上義光プロジェクト」清水義氏の人物解説ページ

よくあるパターンだと義親が清水御前を娶って家を継ぐ…みたいな感じになると思いますが、
この時はどうやら違ったようで、清水御前は文禄4年(1595)に大崎夫人を失った義光の元に嫁ぐことに。
婚姻が慶長元年(1596)ごろだった場合、清水御前は20歳ごろ、義光は50過ぎにあたると推測されており、現代の感覚で見ると相当な年の差婚。

それでも義光とこの清水御前の間には男子が2人・女子が1人生まれていたようです。

義光の死後、清水義親が大坂の陣において豊臣方に内通しているとの嫌疑で殺されると、
清水御前は生家清水家に戻って出家し、真覚尼と名乗って清水山光明寺に庵を結んで隠棲生活を送ったと『最上郡史』『山形県案内』に書かれています。

清水御前が「ごんごさま」と呼ばれるようになった由来である、
貧しい民に五合米を施したというのがいつ頃の話かはわかりませんが、
義光死後、清水御前の生家・清水氏は最上氏の内紛に巻き込まれて滅ぼされてしまうことから、
この話は義光と山形城に暮らしていたころのことと考えるのが自然ではないかと思います。

一方で、「ごんごさま」は最上義康の妻であるという話もネットでは見受けられました。

→参考:「戦国ちょっといい話・悪い話まとめ」内「ごんごさま」記事

「谷地の昔話」というのがソースになっているようですが、検索してみても出処がよくわかりませんでした。
もし詳細をご存知の方がいたらコメント欄などから教えて頂けると嬉しいです。

最後に、清水御前が隠居生活を送った清水山光明寺について調べてみたのですが、
来歴等を検索してもあまり情報がなく、『最上郡史』『山形県案内』にそれぞれ、

清水山光明寺は村の東北にあり真宗東本願寺末なり開基を真覚尼と云ふ

『最上郡史』99P

清水山光明寺は大蔵村の東北にあり真宗東本願寺派にして開基を真覚尼と云ふ

『山形県案内』185P

と記されていることしかわかりませんでした。
幸いGoogleMapには位置情報がありましたので、以下に位置を示しておきます。


光明寺という寺は山形市内にもありますが、こちらは最上氏の始祖である斯波兼頼の墓があるお寺です。
入口には二つ引両の紋もあり、最上氏時代をしのばせる観光スポットの一つとなっているようです。

山形市観光協会公式ウェブサイト内「光明寺」ページ

寺は最上義光の時代には二の丸東大手門前の北側にあったそうですが、最上氏のあとに山形の領主となった鳥居忠政によって現在の位置(山形市七日町5-2-12)に移されたとのこと。

「ごんごさま」が買える場所

「三色もなか ごんごさま」は山形県内の十一屋店舗のほか、ネットでも購入可能です。

※生産を終了したのか、現在はサイトに掲載がありません。

◆参考記事

最上義光の博物館「最上義光歴史館」の「清水夫人」解説ページ

「大崎夫人」解説ページ

「天童夫人」解説ページ

「最上義光プロジェクト」内「清水光氏(義親)」解説ページ

著:伊藤清郎
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