三分一原合戦で長尾為景は「隠居に追い込まれた」のか「満を持して隠居した」のか

感想・レビュー/戦国時代・その他歴史//4

この記事の最終更新日は【2018年9月12日】です。

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乃至政彦先生の「上杉謙信の夢と野望 (歴史新書y)」、ちょっと前の本ですが、
戦国大戦の群雄伝、長尾為景伝がかなり影響を受けていそうだなと思ったので通説と比較してわからないな~というポイントともに、ちょっとまとめておこうと思います。

なお、三分一原そのものの説明については割愛します。
以下の参考記事が詳しいです。
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[blogcard url=”http://kubikino.exblog.jp/8117477″]

通説

「三分一原の戦い」は越後守護代・長尾為景の生涯最後の大戦である。


↑三分一原の位置

三分一橋の北側周辺が古戦場に当たるそうです。石碑もあります。

為景(越後守護代)VS上条定兼(越後守護定実の実家)+揚北衆+上田長尾の戦い。

勝敗:為景方の「辛勝」、為景はこのため影響力を減退させ、「隠居に追い込まれた」

(天文5年(1536)の項)

八月三日、為景は突如として晴景に家督を譲り、自ら隠居する(新-一〇九)。おそらく守護上杉定実の調停による為景方と上条方の講和条件であろうが、実質的には為景方の敗北といってよい。(61ページ)

(2013増補2版『増補改訂版 上杉氏年表』より)

三分一原の合戦は為景の「敗北」とされている。

一方『上杉謙信の夢と野望』では

本書では、通説は新資料によって否定できると主張しています。

だが、この通説は今となっては改められねばならない。
なぜなら新たに発掘された史料(「越後過去名簿」)を見ると、三分一原合戦から十三日後の四月二十三日に上条定兼の死去が確認され、『米澤家譜』にある通り、この敗北が定兼の死に直結したことが明らかにされるからである。
総大将を失った側が勝者であるなど、古今のどこにも例がない。

(P24)

→為景は大きく被害を出しながらも「勝利」し、「満を持して隠居した」

大戦群雄伝では

長尾為景伝5話「三分一原の戦い」
終戦後イベントで為景は「戦略的引退」「自らの死をも用いた計略」をうちたてる。

為景方は「明確に」勝利している

このことから、戦国大戦の為景伝では乃至先生の説を採用しているのではないか、という気がします。
(主人公である為景をより「出来る人物」として差別化するためには、こちらの説のほうが映えるからと思われます)

わからないこと

通説と乃至先生の説を見比べても、結局為景が三分一原の結果によって
「隠居に追い込まれた」のか「隠居した」のかは、
(記事タイトルのごとく)私にはよくわかりません。

以下、判断を妨げている「わからないこと」について箇条書きにしておきます。

・上条定兼の死について記されているという、「越後過去名簿」の信憑性
・『米澤家譜』とはどういう史料で何が書いてあるのか

とりわけ、史料については「甲陽軍鑑」とかくらい有名なものでないと、
「何が書いてあるのか」「どういう出所のものなのか」「信憑性がどう保障されているか」という
重要なポイントはちょっとかじった程度の一般人にはちょっとわかりづらく…

探し方が悪いのか、為景さんについてまとまった記述をしてくれている論文や概説書を見つけることができていないので
もし詳しい情報をご存じの方がいましたら是非ご教授願いたく思います。切実に!

→『上杉謙信の夢と野望』著者の乃至政彦先生から直接話をうかがうことができました。
[blogcard url=”https://sengokulife.com/sanbuichihara02/″]
まとめておきましたので、こちらも参考にどうぞ。