戦国大名は領土拡大を必ずしも望んでいなかった?-「日本中世の自由と平等」受講ノート Week4

戦国武将と領土拡大

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以前紹介した、オンライン講義サイト「gacco」の講座「日本中世の自由と平等」を受講した際のノート代わりのまとめです。

最終週の受講ノートです。

前回の分。

高野山は葬送の寺

今では真言宗といえば高野山というイメージだが、当時の真言宗は東寺が顔であり、高野山は葬送を司る寺として特殊な立場であった。
紀伊国の紀ノ川流域に多くの荘園を所有していた。

中世の検地「検注」とその仕組み

高野山では、1430年ごろ所有している荘園で大規模な検注を行った(高野山大検注)。
検注とは、江戸時代でいう検地のこと。
荘園にどんな土地があり誰が耕作しているのか、規模や税がどれくらい取れるかを検注帳にまとめる。
検注帳には広さや耕作人のほか、あとでグループわけしやすいように番号や田のグレードも記載される。
所有者は地主とよばれ、耕作責任者は作人(さくじん)と呼ばれる。
必ずしも作人本人が耕す必要はなく、耕作の責任がその人にあるというだけである。

税制は石と銭の二本立てのため、田のグレードに応じた石(米)と、1反あたり300文を課される「段別公事銭」(たんべつくじせん)を収める必要があった。
石は田のグレードにより納税量が変わるが、段別公事銭はどのような田であっても一律の価格。

当時の広さとお金の単位表

360歩(ぶ)=1反(たん)
10反=1町
1町=約1ヘクタール

1貫=1000文
1貫=約10万円くらい

当時の領主たちは1貫=1石くらいで価格の安定をさせたがっていた。
(実際にはその年の状況などで変動)

寺は金持ち、でも実際の権力者は武士

前述の高野山で行われた検注で、名手庄という荘園は82町の広さと記録されている。
鎌倉時代の御家人で地頭を勤めている場合は100~200町、広いものでは500町や1000町という広さのものもあったので、この高野山の荘園は小さいものだとわかる。
だが、収益としては大変優秀であった。
高野山はこういったよい荘園をたくさん抱えていたので、巨大な勢力となっていた。

しかし、高野山の上層部は実は武士が占めていた。
高野山の運営者たちの集まり「大集会(だいしゅうえ)」に意見を提出する「小集会衆(しょうしゅうえしゅう)」という有力者グループがあるが、これらは武士出身の人々で占められていた。
大集会は基本的に小集会衆の意見を「高野山の意見」として承認するため、実質的には武士が高野山を支配していたということになる。
また、小集会衆は叔父から甥へと世襲されていた。

一方京都においては、武士の代わりに貴族がこのポジションに立っていた。

惣村と一揆

この当時の村落共同体は惣村と呼ばれており、その構成員は協力し合って支配者サイドに納税や交渉を行っていた。
これを「一揆」と呼ぶ。
一揆とは「揆(こころ)を一にする」の意で、協力しあうことを「一味同心」と言ったりする。

ただし、これら一揆のメンバーになれるのは、惣村のなかでも有力者や本百姓などに限られた。
自力で再生産ができず、来年用の種籾をも食料にしなければ生きていけない下人は上層の惣村メンバーに隷属しなければ暮らして行けないため、一揆の構成員として扱われる権利は持っていなかった。
(惣村の正規メンバーではない、ということ)

検地というと搾取のイメージが強いが、双方にメリットもあった。
荘園領主は納税量を把握でき、また地主は荘園領主から分け前を、作人側は、荘園領主に土地を耕作する権利を保障してもらうことができたのである。

トップダウンのツリー型vsトップ不在のリゾーム型

一般に、主従関係というのは一人の主人に対して複数の家来が仕える一対多の形をとる。

対して、惣村が作る一揆などの場合、直接の主従関係がなかったり、複数の主人をもつ者もいる。
このように、多対多の関係をリゾームという。
リゾーム型ではトップの人間が存在しないため、形としては構成員皆が平等である。

なお、百姓でなく僧が集まった際は僧伽(そうぎゃ)と呼ぶ。

戦国大名=各地の王様なので、領土拡大<自国の守護

戦国大名=「自立」を指向した存在である。
彼らは足利将軍家や天皇からの自立を目指した。

なかでも、管領家の細川政元はその先駆けと言われており、三管領制を廃止し、細川家で独占するなどし、将軍家を傀儡とした。
足利義教→細川政元→織田信長と続く自立へ向けた動きは「宗教への挑戦」であった。
3名とも、日本仏教の総本山である比叡山に軍事力を差し向けている。

また、政元は11代将軍が朝廷から官位を貰った折に「官位など関係なく、私があなたを将軍と思っていれば将軍なのだ」と発言したと伝わる。(=私が将軍と思わなくなればいつでも将軍をやめさせる)
また、天皇の即位式をしてほしいと天皇家から援助を頼まれた際も同様の回答をしている。

しかし人々は「不敬だ」とせず、「政元が言うのなら仕方ない」と納得していた。
つまり、権威が無効化され、「覇者」が生まれたのである。
こうして、下克上は地方へと広がっていき、15世紀には金子平氏が「腕を持ってこそ」(実力がなければ始まらない)と発言するほどになった。

今川義元が追加したことで知られる「今川仮名目録」にも、既存の権威からの脱却を図った項目がある。
これらは自由聖域であったアジールをとりやめ、実力による支配と保護を明文化したものである。

ただし、戦国大名たちは一般にイメージされるような領土拡大を必ずしも望んでいたわけではない。
戦国大名=各地の王様であり、国を守ることが最優先であるからである。
このため「日本は一つであるべき」として天下統一を指向した織田信長は、特異な存在と見るべきである。

ツリー型の信長VSリゾーム型の一向宗

信長は長年、宗教勢力である一向宗と対立していたが、これらは一向宗が中世的な平等の基盤となっていたことに起因する。
ツリー型の支配を根付かせたい信長としては、リゾーム型の一向宗とは対立せざるを得なかった。
そのため、教えには理解を示しつつも、「理念」を徹底的に破壊しようとしたのである。
(信長が行った虐殺は日本史史上他に類のないものだという)

一向宗の敗北により、リゾーム型をとる一揆などの中世的な平等は一時収束を迎えた。
再び歴史の表舞台に「平等」が議題として登るのは明治維新を迎えてからである。

◆「日本中世の自由と平等」受講ノート

第一回 歴史学とはなにか、武士とはなにか

第二回 くじ引き将軍義教の改革と実効支配(当知行)の世界

第三回 野放図な自由の世界と聖域(アジール)と土地所有権の成熟

第四回 戦国大名は領土拡大を必ずしも望んでいなかった?

 

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