以前紹介した、オンライン講義サイト「gacco」の講座「日本中世の自由と平等」を受講した際のノート代わりのまとめです。
以前別ブログで掲載していたのを1週ごとにまとめなおしました。
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「日本中世の自由と平等」公式サイトはこちら。
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「日本中世の自由と平等」受講ノート 1-1「ウラを取ることの必要性」
歴史学とはなんぞや?
歴史学≠暗記である。
よく若い人が歴史を苦手というが、人間が好きなら誰でも好きになれる学問。
どんな形であれ、歴史に親しむ人が増えることを研究者は歓迎している。
歴史は科学である
フィクションで人気があっても、歴史学で重要であるとは限らない。
例:坂本龍馬、宮本武蔵
彼らは人気だが、小説家が作り出した人物像が人気なのであって、歴史学としては重要視されない。
フィクション≠歴史である。
なぜ歴史が科学か?
その理由は「こうである」と説明した場合に、根拠をきちんと答えられなくてはいけないから。
妄想ではダメ。
「ウラをとる」必要性がある。
同じように「ウラを必要とされるもの」には報道や裁判、株式トレーダーなどが挙げられる。
まとめ
歴史は科学!
暗記をする必要はないが、フィクションとは切り離して楽しもう。
常々、歴史研究の世界って探偵みたいだなぁと思っていたんですが、やっぱりそんな感じなんですね~
この節では、課題はなかったです。
一回の講義で9節=動画9つくらい、各8分くらいなので、なかなか見るのが大変ですが、気になったところだけでもノート記事を更新していけたらなと思います。
とはいえ、通常大学の講義は90分くらいなので、8分ごとに話が区切られてると飽き性の私には大変助かります(笑)
「日本中世の自由と平等」受講ノート 1-2「ウラを取るには」
gacco「日本中世の自由と平等」講義ノート二回目です。
何故日本には世界に類を見ないほど史料が残っているか?
世界の他の国に比べ、比較的歴史が穏やかだったから。
海をへだてているため、中国やヨーロッパ大陸と異なり外国からほぼ攻められることがなく、史料が残った。
第二の理由は、四季が温暖であること。
このため人々の正確にも影響し、宗教による残虐な「大量虐殺・大量破壊(ジェノサイド)」がほとんど起きなかった。
(例外:織田信長くらい)
温暖=そこそこ豊かなので、食料不足に陥りにくい。
戦国時代が始まったのは寒冷化による食料不足が原因とする説もある。
史料にはどういうものがあるか
大きく分けて古記録・古文書の2つ。
・古記録
貴族・僧侶などの日記。知識人などの社会の上層に属する人が残す事が多い。社会・政治を知る手がかり。
・古文書
こちらは上流階級でなく農民も含む。
・その他
物語、編纂物
これらの史料を使って歴史を復元していく。
受講後雑感
今回の節にはクイズがついてました。成績には影響しないみたいです。
清水先生の「喧嘩両成敗の誕生」とか読んでいると、
人々が本当に穏やかだったのか?という点にはちょっと疑問が残りますが、「世界史的に見ると」穏やかだったんでしょうかね~?
あと古文書と古記録の違いは逆だと思ってました。
古記録=農民とかも関わるようなもの、古文書=お偉いさんの発行したものだと思っていたので。
「日本中世の自由と平等」受講ノート 1-3「それでは一通の古文書を見てみよう」
gacco「日本中世の自由と平等」講義ノート3回目です。
実際に文書を観察する
読めなくてもいいので、よく見て「変なこと」に気付こう。
足利尊氏からの命令を海の武士団に伝えた武蔵守(高師直)の文書
室町幕府初代将軍の第一の家臣・高師直が、「泰地・塩崎」(地名)の武士団に宛てた命令書を見ていく。
操船技術に長けた「泰地・塩崎」の武士団に対し、師直は以下の内容を書面で伝えた。
・瀬戸内海を航行する商船を海賊から守ってやること
・そのお礼として、銭を受け取ることを許可
「泰地・塩崎」の武士団が守るべきエリアは瀬戸内海全域。
「泰地」は現在の和歌山県太地町。
「塩崎」も同じく和歌山県の古座川町にあった武士団と言われている。
文書を書いていたのは本人ではなく右筆
文書で命令を伝えるというのは大事な政治行為だったので、専門の職人がいた。
これを、「右筆(ゆうひつ)」と呼ぶ。
イメージとしては秘書というより官僚。
右筆は「奉行人」とも言い、室町幕府には30人くらいがいた。
奉行人・右筆は世襲されていく。
ちなみに、鎌倉時代の初期のころはまだ、幕府の重役武士クラスでも、文字(漢字)が書けない者もいた。
(補足:当時の正式な文書は漢字を使うもので、ひらがなを使うのは私的文書という認識だった。『戦国の日本語』参照)
受講後雑感
奉行人ってよく名前を聞く職業でしたが、右筆と同義だったんですねぇ。
三好関係ではわりとよく目にしていた単語でしたし、早雲先生関係でもわりあい見かけていたのに、
実際どういうものなのかはよくわかってなかったです。
あと、鎌倉ごろはまだ武士の識字率が低かったというのに驚きました。
本郷先生曰く頼朝などは書けていたらしいですが、いつごろ位から自筆できる武士が増えていったんですかね~。
気になります。
「日本中世の自由と平等」受講ノート 1-4「海の武士団 陸の武士団」
gacco「日本中世の自由と平等」講義ノート4回目です。
そもそも武士とはなんぞや?
武士=陸のものであるというのが一般的なイメージ。
武士というのは、平安時代後期に生まれた。
といってもいきなり誰かが武士をなのりはじめたのではなく、武士になるためのルートがある。
武士と認められるには、大狩(おおかり)に出られる必要がある
武士というのは当時、「弓騎兵」を指した。
弓騎兵は馬に乗り、弓を扱う。
ヨーロッパのナイトは「槍騎兵」。
我々は武士というとどうしても江戸時代=チャンバラ=刀というイメージを持ちがちだが、
平安後期ぐらいは戦いにおいてあまり刀は使用しなかった。
殺傷能力に優れていたのは弓。
武士とは、当時の県庁である国衙(こくが)が4年に一度主催する「大狩(おおかり)」への出場を許された者を指す。
大狩は4年に一度、国衙の長官である国司(今で言う県知事)が主催し、山の神・土地の神にお礼をする神事。
選ばれた者しか出場することができない。
また、選ばれた場合も、野山を駆けまわるイノシシ、シカ、ウサギなどを射止めるのは大変技量を必要とした。
国司というのは「○○守(~のかみ)」と呼ばれている人たち。
武士とは、在地領主でもある
経済的な側面から見ると、武士とは在地領主でもある。
国衙と農業などの契約内容や税の率などの交渉をし、1年毎に契約を交わす。
大抵の武士は陸地で農耕を行うことから、海の武士というのはとても珍しい存在。
高師直の文書は、海の武士が稀有な存在だと教えてくれる
犬をあるスペースに放ち、射止めるスポーツである「犬追物(いぬおうもの)」の図には、鎧を着た武士が描かれている。
鎧を着ると30kgほどにもなることから、万が一船から落ちるなどしたら、ほぼ助からない。
つまり、海の武士=死と隣りあわせの恐ろしい世界。
1-3で見た高師直の文書は、こういう「海の武士」が存在していたことを教えてくれる。
受講後雑感
武士がそもそもなんなのかって、実は考えたことがなかったので勉強になりました。
平安時代から出てきたのは日本史で習ったので知っていたんですが、「弓騎兵」を指すものだったんですね。
よく戦国の頃に武道を学ぶという意味合いで「弓馬の道」とか表現されたりしてますが、こういう背景があったとは。
「大狩」に関しては、「巻狩」とよく似ている気がします。同じものでしょうかね?
「日本中世の自由と平等」受講ノート 1-5「網野善彦の「二倍史学」」
gacco「日本中世の自由と平等」講義ノート5回目です。
引き続き、「高師直が海の武士団に宛てた文書」を見ていく。
「陸の定住者」=権力者にとってわかりやすくありがたい存在
陸の定住者は、税の取り立てなどがしやすく権力者にとって接しやすくありがたい存在であると、歴史研究家の網野善彦が唱えた。
このため、文書に実態が書き残されデータが後世まで残りやすい。
職人・商人といった「漂泊者」は史料に残りにくい
騎馬民族であったり、「物を売り歩く」職人・商人であったり、「ひとつ所に定住しない人びと」=「漂泊の民」は為政者が税を取り立てにくく、史料にも残りづらい。
「ウラを取る」ことが重要な歴史学において、「漂泊の民」は史料に乏しいことから実態把握がすっぽりと抜け落ちてしまっていた。
これを指摘したのが、網野善彦である。
網野善彦の「二倍史学」とは
「陸の定住者」のみの視点だけでなく、「漂泊の民」の視点をも加える事で、「二倍」歴史をより深く知ることができるようになるのではないか?という考え方。
「二倍史学」という呼称自体は、本郷先生の独自の命名。
百姓は農民に限らない
百姓は、必ずしも農民であるとは限らない。
実例として、網野氏が能登半島に調査に赴いた際、「日本海側の農家=土地が少ない=貧しい」と思っていたら、実態は異なっていた。
日本海側はある時期まで、太平洋側よりも流通の中心を担っていたこともあり、商業活動にも手を出している農民も多くいた。
農民であっても、時に商人をやっている、ということも実際にはあったということである。
しかし商業活動はなかなか史料に残らないことから、実態が伝わっていなかった。
「海の武士団の文書」は上記の例のような「史料に残りづらい側面をも想起・検証することの重要性」を説くものである。
「日本中世の自由と平等」受講ノート 1-6「二倍史学が有効な例」
gacco「日本中世の自由と平等」講義ノート6回目です。
今回は閑話休題。
紙背文書(しはいもんじょ)
紙背文書(しはいもんじょ)とは、「使用済み用紙を繋ぎあわせて再利用したものが残り、結果的に史料として残ったもの」のこと。
当時、紙は高級品だったため、一度書いただけでは捨てない。
とくに経を書くなどで数多く紙を使用する寺では、使用済みの紙(表にはすでになにか書いてあるもの)をあつめて白紙の方を表にしてつなぎ、再び利用していた。
年月を経て、その経が残ったことにより、裏面の文書ものこり、結果的に裏面の文書が史料として着目されると、「紙背文書」となる。
(千葉県市川市・中山法華経寺の紙背文書を図示)
昔の人のトイレットペーパー=アイスの棒みたいなやつ
紙もだが、木ベラなども高級品だった。
基本的に、昔の人間はトイレで排泄しても尻を拭かなかった。
一部の清潔を求める人間が、アイスの棒のような木ベラで拭いていた。
このことは、遺跡などからこの木ベラが多く出土したことにより判明した。
「捨てられたもの」たちの世界
紙背文書になっている文書は、「捨てられたもの」である。
捨てられたものにも、共通点がある。
紙背文書には、「人身売買」について書いてある。
一般的に、「日本中世には奴隷の売買は行われていなかった」ことになっている。
平安時代に人身売買を禁じる法令がたくさん出されたことによる影響。
しかし、紙背文書を見ていくと、実際には人身売買は起きていたということがわかる。
「乙女(乙=「二番目の」の意)」という奴隷が、「身代」を払い、自由になったことが書かれている文書の紹介。
江戸吉原の遊女の「身請け」という言葉は、中世から使われていた。
この文書をみると、同時の人々が人身売買を普通に行っていたということがわかる。
中世史研究者がこの事実に気づかなかった理由は、「表の文書」ばかりを見ていたから。
紙背文書にある人身売買の記録は、本人が死ぬと不要になる。このため50年くらいで捨てられてしまう。
一方、土地は延々と残り続けるため、土地の権利関係の文書は残る。(=不動産)
網野善彦は、これらの「捨てられたもの」にもきちんと目を向けていくべきであると主張していた。
これが、「二倍史学」の真骨頂である。
「日本中世の自由と平等」受講ノート 1-7「いや、それにしても」
gacco「日本中世の自由と平等」講義ノート7回目です。
「海の武士団」の文書は偽文書ではないのか?
学生時代の本郷先生は、網野氏からこの「海の武士団の文書」の解説を頼まれた。
が、「偽文書ではないのか?」という疑問にぶち当たった。
偽文書とは、ニセの偽造文書のこと。
疑文書とは、「偽文書」の疑いのある文書。
理由は「「字がうまくないと務まらない」右筆が書いたものにしては、字が汚い」こと。
中世の文書は形式にかなりうるさく、その点は整っているがこれは偽物のようだと本郷先生は感じたそうだ。
もう一点の理由は、この文書を含んでいる「那智大社文書」にはいくつか偽文書が混じっているという事実に基づく疑念。
ただ、網野善彦にとっては、ようやくみつけた「海の武士団」が存在する証拠である。
他に史料がないことから、この史料が偽文書であれば、「海の武士団」が実在したとは断言できなくなってしまう。
受講後雑感
今回はレクチャーというより3回目から見ている文書がどういうものかについての経緯の説明でしたね~
「日本中世の自由と平等」受講ノート 1-8「ところがところが」
gacco「日本中世の自由と平等」講義ノート8回目です。
当時、偽文書が作られる条件
・裁判用
現代と違い、「誰かの書いた文書だから」高値で取引されるということはなく、「法廷で使用するために」偽造された。
偽造を請け負う「偽文書屋」がいるわけではないので、同じ筆跡・書式であれば、関係者(当事者)が書いた可能性が高い。
もし書かれている内容が元の内容と全く関係のないものであれば、それは「偽文書ではなく本人が書いた別の文書」である可能性が高いといえる。
海の武士団宛の文書と畠山左近太夫宛の文書は同一の右筆の手によるもの?
平安時代から争い続けている根来寺と高野山。
暦応2年6月におきた抗争を停止させるために足利尊氏の弟・直義が、紀伊(和歌山)の守護・畠山左太夫に宛てた文書。
海の武士団の話とは全く関係ないものであることから、これら2つの書状を書いた右筆は室町幕府に仕えていた人物であると推測できる。
つまり、「海の武士団」の文書は偽文書ではない可能性が高い。=海の武士団は実在したといえる。
「日本中世の自由と平等」受講ノート 1-9「雑訴決断所の文書」
gacco「日本中世の自由と平等」講義ノート9回目です。
例の字の汚い右筆は「臨川寺奉行」?
臨川寺の文書を紹介。これは例の字の汚い右筆が高師直に指示されて書いたもの。
(有力な大きい寺に手紙を出す時の右筆というのは決まっている→「○○寺奉行」)
この右筆自体の動向を追っていくと、「雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)文書」に行き当たる。
雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)とは
室町幕府の機関ではなく、室町幕府が倒した建武政権(後醍醐天皇)の役所。
裁判官を貴族・武士から選び、8つのグループに分けて全国各地方を担当させた。
古い形式が好きな後醍醐天皇は「牒」と呼ばれる形式の文書をこの字の汚い右筆に書かせた。
「牒」
当初は、令制で主典【さかん】以上の役人が役所に差し出す文書であったが、時代が下るとともに用途が拡大し、上下関係にない官庁や諸機関の間で取り交わす文書に用いられた。
(講座下解説より引用)
字の汚い右筆の経歴
建武政権下では雑訴決断所で働き、室町幕府にヘッドハンティングされ再び右筆として働く武士。
雑訴決断所のグループのメンバーはおおよそ人名が把握されている。
そのグループの中で、文字を書くような身分の人間。
候補として可能性が高いと言われているのは「斎藤基夏(さいとうもとなつ)」という人物。
斎藤氏は元は北陸に基盤を持ちながらも、鎌倉時代から六波羅探題で奉行人をしていた一族。
(六波羅探題=鎌倉幕府の京都支社)
頭が良かったことから、武士ではあるが官僚的な仕え方をしていた。
通字は「基」字。
元は鎌倉幕府(北条氏)に仕えていたが、鎌倉幕府が滅びると建武政権にヘッドハンティングされ、雑訴決断所で働くように。
その後建武政権が滅びると室町幕府で再度右筆に。
week1の試験
2つ目のだけ不正解でした…くっそー、悔しいなぁ。
講座を見て+ググッてもわからない部分があるので回答解説が待ち遠しいところです。
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◆「日本中世の自由と平等」受講ノート