上杉顕定から色部昌長宛て書状に出ていた「長尾六郎」は果たして「長尾為景」か、「上田長尾房長」なのか!?
気になったら夜も眠れなくなったのでちょっと手持ちの本をゴソゴソ調べてみたまとめです。
上杉顕定から色部昌長宛て書状
太田道灌や長尾景春について詳しい『享徳の乱と太田道灌』の後ろのほうで、長尾為景についても触れている章があります。
山内・扇谷の両上杉家では下剋上を阻止できたが、越後上杉家では逆に為景によって守護房能が殺害され、力関係が逆転したという話。
で、そこに
房能が逃亡したとき、これに味方しようとしたと疑われて困ってしまった色部昌長(越後の国人)が上杉顕定に救いを求めてきたことがあったが、顕定はすぐに色部に書状を遣わし、「時期をみて長尾六郎(為景)に言っておくから、心配はない」と述べている。長尾為景と自分は対立関係にないことを、顕定は書状の中で表明していたのである。
(山田邦明「享徳の乱と太田道灌」、197P)
という興味深い一文が出ています。
この時点(房能と為景が対立していた1507年春~8月頃)ではまだ顕定と為景が対立関係になかった(=まだ越後に攻め入る気はなかった?)という見解です。
この一文を読んでいくと、1507年~1509年まで続く本庄・色部氏を中心とした揚北衆の抵抗も、「新守護となった定実に異を唱える」という表向きの理由のほかに、為景に元から房能方についたという言いがかりをつけられていて衝突しかかっていたのに顕定が手を打たなかったことから軍事蜂起せざるを得なくなった側面があるのかなという気もしてきます。
(蜂起した時期がちょうど為景が八条氏と政争している時期だったのは隙をついて、といったところなんでしょうか)
この「長尾六郎」は誰か?
んで、本題ですが。
上記の文に出てくる「長尾六郎」は山田先生の本では(為景)と但し書きがされています。
ところが、近い時代を扱った他の本を読んでいた所、この「六郎」を「上田長尾房長」としているパターンに出くわしました。
上田長尾房長の通称も「六郎(新六)」ということなので、誤記とかではないようです。
となると、この「長尾六郎」は「長尾為景」か「上田長尾房長」のどちらかということになりますが、
どちらの人物になるかによって顕定の手紙の意味が微妙に異なってきます。
「長尾六郎」が為景だった場合は、山田先生の本にある通り、顕定は色部昌長に対して「為景へのとりなし」を請け負った=為景との関係は比較的安定(外交チャネルがある程度には)していた、という内容に。
対立が始まるのは顕定が越後介入を始めた1509年10月以降ということになります。
「長尾六郎」が上田長尾だった場合は、「軍を派遣できないことへのいいわけ」といった色が濃くなります。
「六郎=上田長尾房長説」を採る「本庄氏と色部氏」「上杉氏年表」の方では、顕定は当時再度自分の元から離反・蜂起した長尾景春の対応に手を焼いており、遠く北越後へ援軍を派遣する余裕がなかったので濁したようなこういう返事をしたのだという論調です。
上田長尾氏の治めていた魚沼のあたりは、越後ではなく関東管領家の領地であり、上田長尾氏は管領家の直属被官という色合いが濃かったことから、「同時代の長尾六郎=上田長尾の房長」というように主張がなされたものと思われます。
それ以前の決着がつかないと六郎が誰かはわからない?
いろいろとどちらのほうが信憑性がありそうか考えてみたのですが、
そもそも顕定が越後に侵攻した理由からして研究者の間でも意見が割れているようで、決着を見ていないようなのです。
Wikipediaの上杉顕定の項を見る限りでも、「房能の仇討の意図がどのくらい強かったか」で以下のように説が分散しています。
古河公方の内乱を収めた直後の永正6年(1509年)7月、顕定は養子の憲房と共に越後に攻め入り長尾為景(上杉謙信の父)と上杉定実を越中国に追放した。この侵攻は一般的に、永正4年(1507年)に顕定の弟で越後守護を務めていた上杉房能が守護代の為景を主力とした上杉定実軍に追われて自刃したことへの報復と捉えられている[4]。
片桐昭彦はこれに加えて越後守護上杉家から上杉宗家の地位を奪還する意図があったと推測する[5]。 また、山田邦明は、顕定が房能方であった色部氏と為景の和睦の道を探っていたり、伊達氏に宛てて「定実に対して一切の余儀(=遺恨)は無い」と伝えていることから[6]、永正5年の段階において顕定と為景は決定的な対立関係に無かったとして、直接的な契機を山内家の所領である妻有庄へ為景方の信濃衆が攻め入ったことに求める[7]。
4:例えば羽下徳彦「越後における永正~天文の戦乱」(同著『中世日本の政治と史料』 吉川弘文館、1995年、39頁、 初出1961年)には「房能の復讐という直接の意図」とあり、 『増補改訂版 上杉氏年表』(高志書院、2007年)の永正5年条(長谷川伸執筆、20頁)には「顕定は房能の弔い合戦を意図」とある。
5:片桐昭彦 「上杉謙信の家督継承と家格秩序の創出」 『上越市史研究』第10号、2004年。
6:この定実に対する顕定の認識は羽下徳彦も指摘しているが、永正の変が「上杉氏の内訌ではない」と書くに留める。(「越後における守護領国の形成」 同著『中世日本の政治と史料』 吉川弘文館、1995年 所収、 初出1959年)
7:「永正の乱と妻有」 『十日町市史 通史編1』第5章第1節、1997年、439-441頁。(Wikipedia「上杉顕定」 2015/12/11)
山田先生の説以外は唱えられた時期が古いものが多く、加えて「越後守護上杉家から上杉宗家の地位を奪還する意図」というのも私のような素人にはちょっと意味がよくわかりません…
(顕定の生家はもともと越後上杉家だったのになんで奪還?みたいな違和感が)
ともあれ、顕定のこの話が決着しないことには顕定→色部の手紙に出てきた「長尾六郎」がどちらなのかはちょっと分かりそうになく、残念至極。
私個人としては、山田先生の説(六郎=為景)を支持したいところではありますが。
参考資料
引用箇所と巻末の年表を参考にしました。
永正年間あたりを参考にしました。
1508年の段階で景春が顕定の邪魔をしていたという話が出ていますが、景春側の本を確認していないので実際はどうなのか…
「六郎=上田長尾説」を初めて目にした本。(P30)
今回話題にした顕定さんの手紙の書き下しが載っていたので以下に引用しておきます。
「房能没命の砌(みぎり)、其口へ退かれ候や、之によって進退の事申越され候、如何様時節を以て、長尾六郎方へ相届くべく候、退屈あるべからず候」(『色部文書』)
(渡辺三省「本庄氏と色部氏」30P)