くじ引き将軍義教の改革と実効支配(当知行)の世界-「日本中世の自由と平等」受講ノート Week2

歴史・文化4
足利義教と当知行

以前紹介した、オンライン講義サイト「gacco」の講座「日本中世の自由と平等」を受講した際のノート代わりのまとめです。

一単元ごとだとメモが大変なので1週2つにすることにしました。
というわけで2週目の前半です。

前回の分。

「日本中世の自由と平等」受講ノート Week2(前半)

くじ引き将軍・足利義教の選出

くじを引いて何かを決定することは、当時ではよく行われていた。
(他には、湯起請(ゆぎしょう)など)
ただし、現代のように公平な抽選であったかというと実態は怪しく、実際には当事者や周囲の人間によって、
結果を誘導するために細工が行われることもあった。

4代将軍・義持の跡継ぎは早世してしまっていたため義持の死後、僧籍にあった兄弟たち4人の名前でくじ引きして将軍を決めることに。
「3回やって3度とも義教が当選した」と当時の日記に書かれているが、義教を将軍に据えたいグループにより細工された可能性もある。
しかし、どちらだったのか実証できる史料はない。
=ウラを取れない。

歴史学は基本的にウラを取ることが求められるが、このようにウラを取ることができない場合もある。

室町幕府の基本構造と革新的すぎた義教

室町幕府の構造は、
将軍→管領→奉行人
という順になっていた。
(奉行人は右筆など)

奉行人たちはそれぞれに課せられた案件を管領に持って行き、管領はそれに対して指示を出す。
これが基本の政治の構造だった。

しかし、義教は管領が行っていたこの役割を自らが行おうとした。
(将軍→奉行人体制)
このシステムは「御前落居(ごぜんらっきょ)」と呼ばれる。
(落居=決着をつける、の意)

この御前落居(裁定)を記録したものが、「御前落居記録」。

義教は将軍主導の政治を強硬に推し進めたため、のちに赤松満祐に暗殺された。
(「将軍犬死」とまで言われた)

小笠原持長の訴えと奉行人たちの調査手順

信濃守護の一族であり幕府奉公衆の小笠原持長の「御前落居記録」をみていく。

奉公衆=江戸時代でいう、旗本。平時は幕府御所の番役・将軍外出時の供をつとめ、戦時には将軍の親衛隊となった。
幕府直属の軍事力であり、全盛期には3000余兵を抱えていたとも。(当時の各地の守護の兵力は1000程度)
(前述の奉行人は、彼ら奉公衆に対して対をなす「官僚」的存在)

小笠原持長の訴えは、「備中草間村の権利書」を叔父の雅楽持忠から譲り受け、草間村から税を取り立てようとしたところ、草間村は細川氏に実効支配されており、取り立てができなかったのでなんとかして欲しいという内容。
細川氏は三管領のうち一家であり、幕府内でも最有力の大名家である。

訴えを受け、将軍義教は奉行人たちに「持長が叔父から草間村の権利書を受け取ることは法に照らして問題がないかどうか」を調べるよう指示する。
(鎌倉幕府が出した御成敗式目において土地を売り買いすることは禁じられており、基本的には「父→子」という譲渡しか認められていなかったことが理由)

土地の売り買いを禁じた理由は「幕府(武家政権)」から土地が流出してしまうのを防ぐためだった。
今回のケースでは「叔父→甥」「奉公衆→奉公衆」という構造での譲り渡しであることから、奉行人たちは「問題ない」という認識を確認し合った。
奉行人はこの内容をまとめ「意見状(同僚たちに意見を聞いてきたもの)」を将軍に提出し、将軍がこれをOKしたので、持長は「草間村の権利書を所有する権利があること」を認められた。
(意見状=将軍の質問に応える状、の意)

当時の法律は散逸しまくっている上に「使う人が自分で調べてね」方式!?

「叔父→甥」相続がOKと奉行人たちが主張した根拠には、鎌倉幕府が出した法があったのだが、基本的に法は御成敗式目などの「憲法」クラスを除き広く告知されるものではなかった。
裁定の場において、立証したい側などが自ら調べるものであり、体系的にまとめられてはいなかった。
整理・記録がいい加減だったということである。

小笠原一族と犬追物

小笠原一族は信濃守護であったが、全国あちこちに領地をもち、本人たちは京都で将軍に仕えていた。(在京守護)
前述の持長は将軍義教の弓の先生をしていた人物。
弓は、鉄砲の普及まで武士の象徴として扱われていた。(弓上手=一流の武士という認識)
このことから、次第に作法などにも通じることとなり、小笠原流礼法へと発展していく。

当時の弓の教え方は、犬追物というスポーツを通じて行われていた。
円形の馬場に放った犬を弓で射て、当たった部位によって異なる得点を競うものである。
犬追物で使用する矢には鏃(やじり)がないが、内出血を起こして犬は死ぬ。

この犬追物について持長が記録した「犬追物日記」は古本屋で売立(うりたて)=オークションにかけられていた。

地名を調べるときに読むべき本

本講座で取り上げられたような事例を調査する時は、「草間村」がどこにありどのような場所であったかを調べる必要性がある。
こういった地名を調べる際には最低でも以下の本を参考にするとよい。

「角川日本地名大辞典」「日本歴史地名大系」
(図書館であれば大抵所蔵している)

また、各地に存在していた荘園については、

「荘園分布図」(上・下)
が参考になる。地図の上に荘園が記載され、どこに存在したのかや地理的状況がよく分かる。
(絶版書のため、中古書店へGO。かなりオススメの本とのこと)

再まとめ・奉行人と奉公衆

奉行人は実務・官僚。右筆などもこちらに含まれる。上司は管領など。
奉公衆は将軍の側近。軍事力であり護衛。

「日本中世の自由と平等」受講ノート Week2(後半)

2週目の後半ノートです。

小笠原持長の訴えが主旨とズレて裁定された理由

将軍義教は「持長は草間村の権利書を持っても問題ない」という裁定を下したが、持長の訴えた内容は別のところにあった。
持長は「草間村から税を取り立てれるように、細川氏が支配しているのをなんとかして欲しい」と思っていたのであって、
別に権利書の正当性を認めてもらいたかったわけではなかった。

当然、現代の我々の感覚であれば「土地の権利を所有する小笠原持長が土地を支配できるよう、幕府は働くべき」と考えてしまうが、ではなぜ幕府はそうしなかったのだろうか?
これは、細川氏の権力にメスを入れてしまうと室町幕府にとってもダメージがあるという理由が大きい。
このため、幕府は小笠原持長に対し、あくまで「権利書の正当性を立証する」に留まる対応しかしなかったのである。

中世は実効支配=「当知行」第一主義の世界

幕府が持長のために軍を動かして細川氏を追いやらなかった理由は、当時の考え方に強く起因するものである。

鎌倉・室町幕府のあった中世社会は、「当知行(とうちぎょう)」が優先される社会であった。
「当知行」とは、支配する権利の有無に関わらず、その土地を支配していることを指す言葉で、つまりは「実効支配」のことである。

当知行と逆に、その地を支配できていないことを「不知行(ふちぎょう)」と言う。
本講座における小笠原持長の状態がまさに、「不知行」である。

仮に権利書を持っていない状態でも、実効支配に及んでしまえば後に幕府から支配の追認が下ることもあった。
逆に、小笠原持長のように権利書を持ち合わせていても、実力不足などから「不知行」の状態になってしまうと、
取り戻すために幕府が力を貸してくれることはなく、自力で奪い返さなくてはいけなかった。
当時の幕府権力というのは、その程度の力しかなかったということである。

実情(ザイン)と当為(ゾッレン)―「~である」VS「~べき」の仁義なき戦い

中世社会は「当為」より「実情」が重い社会であったとも言える。

「当為」とは、「~すべき」という意味。
小笠原持長の件でいうなら、「権利書を持つものが土地を支配するべき」という「タテマエ」のこと。

「実情」とは、「~である」という意味。
この例では「草間村は細川氏が支配している」という「現実」「実態」のこと。

中世社会は自力救済の世界であったともよく言われているが、「当為」より「実情」が重く見られるという点にそのことがよく現れているのではないだろうか。

本郷先生は、「実力のあるものが鎬を削りあう戦国時代」は突如現れたわけではなく、この「実情」を優先する中世社会がより表沙汰に過激化していった結果生まれたのではと述べていた。

「権門体制論」と「東国国家論」

戦後、戦前の皇国史観への反省から歴史学の世界では「武士の世界」の評価を見直す動きが高まっていた。
これに対し、「日本は一つであった」という主張展開したのが「権門体制論」である。

「権門体制論」とは、公家(政治)・武家(治安維持)・寺社(祈祷)という権門が「王家(天皇)」を支えることで一つの国家が成り立っているという考え方。
武家政権が政治を担ったとしても、頂点にいるのは「王家」で、「日本という国家は一つ」であるという内容である。

「実情と当為」に照らすと、この権門体制論には疑問が残る。
「権門体制論は、日本は一つであるべきという「当為」に偏っているのではないか?」というもの。
つまり、「実態としては日本はそこまで一つにまとまってはいなかったのではないか?」という指摘が入る余地がある。

これを突いたのが「東国国家論」という考え方。
「中世に(近代と同じような)国家は本当に存在したのか?」「国民国家というのは明治時代になって出てきたものであるから、そのままそれを中世社会にあてはめて前提とすることは問題」という観点で、権門体制論が成り立たないことを指摘した。

「東国国家論」では実情の方を重視し、「日本の中にも複数の国家があった」という考え方を取る。
少なくとも、将軍が治める武士たちの「東国」と朝廷の「西国」の2つが存在し、両者は並列に語ることができるものであるという考え方である。
すなわち、東国国家論では2つの王権が並立したと考える。
(さらに東北地方を分け、「北」の国家と考える場合もある)

しかしながら、実情に照らすと検討を要する部分も多い権門体制論はなお強く支持を受けており、本郷先生の見立てでは権門体制論:東国国家論の支持率は80:20くらいであるという。

◆「日本中世の自由と平等」受講ノート

第一回 歴史学とはなにか、武士とはなにか

第二回 くじ引き将軍義教の改革と実効支配(当知行)の世界

第三回 野放図な自由の世界と聖域(アジール)と土地所有権の成熟

第四回 戦国大名は領土拡大を必ずしも望んでいなかった?