古河公方・足利成氏とはどんな人?【戦国大戦元ネタ】

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戦国大戦の足利成氏

アーケードカードゲーム「戦国大戦 1477-1615日ノ本一統への軍記」において、カード化された「足利成氏」(あしかがしげうじ)。
一般には「古河公方」(こがくぼう)として知られている彼ですが、30年もの歳月を戦い抜いた史実での人物像と、セリフの元ネタを調べてまとめました。

カード裏セリフ

「この俺こそが鎌倉を……いや、関八州の始まりと終わりを支配するのだ……!!」

後述しますが、成氏はその生涯を掛けて「鎌倉への帰還」を望んでいました。
おそらくは、それを示唆するセリフでしょう。

鎌倉公方であった彼は鎌倉を追われ、古河(現在の茨城県古河市)を拠点とするようになったことから「古河公方」の名が付きました。

成氏の遺言には、

「我れ空く成行くとも、秘計を廻らし敵を打従へ、再び鎌倉に還住し、関八州を手に属せば、中々無双の孝行なるべし」
(鎌倉公方九代後記)

とあり、山内上杉氏(関東管領)・扇谷上杉氏との抗争が一段落したあとも、鎌倉への帰還を望んでいたことが伺われます。

山内上杉氏…長尾景春や上杉顕定らが所属。関東管領を排出する家柄。のちに上杉謙信が継ぐ。
扇谷上杉氏…太田道灌や上杉定正らが所属。のちに北条氏康によって滅亡させられた。

計略名「享乱の銃弾」

計略名「享乱の銃弾」は、
足利成氏が関東管領の上杉憲忠を殺害したことに端を発して起きた「享徳の乱」から取った可能性が高いと思われます。

采配・将配系などの複数人に効果のある計略ではなく、単体計略なのも、成氏の生涯を示しているようで面白いですね。

落城セリフ

落城セリフ

「再び関八州を取り戻す……従わぬ者は皆殺しだ」

こちらもカード裏セリフ同様、関東のトップたる「鎌倉公方」の復権を望む、という意味合いが強いセリフです。
「敵を打従へ」の部分も意識しているのかもしれません。

撤退セリフ

「戦は、飽きたな…」

成氏の願望は、領土欲というよりは室町幕府に逆らう存在であるという「朝敵」の指定を解除してもらい、正式に鎌倉に帰還することが目的でした。
30余年を戦い抜いたとはいえ、その心中は自ら戦を望んでいたわけではないことから、このセリフになったのではないでしょうか。

攻城セリフ・復活セリフ・虎口攻め成功セリフ

攻城セリフ

「将軍家、関東管領への復讐こそが、俺を動かす力(ちから)」

復活セリフ

「復讐を決行する」

虎口攻め成功セリフ

「怒り、憎悪、何より強い剣(つるぎ)よ」

父・足利持氏と、兄弟を室町幕府および関東管領(山内上杉氏)に殺害されているという背景からきているセリフと思われます。

鎌倉公方の復興

足利成氏の父・足利持氏は元々、関東府のトップである「鎌倉公方」という役職に就いていた人物でした。

「関東府」というと、耳慣れないかも知れませんが、
室町幕府は、日本全国を支配していたというよりは、関東地方は関東地方として、「鎌倉公方」を頂点とする関東府に支配を任せるという方式を取っていたのです。
要は、「関東のことは関東でヨロシク」という感じですね。
(室町幕府にそれだけの力がなかったという証拠でもあります…)

が、このトップである鎌倉公方というのが、設立当初から何かといわくつきで、どうにも京都の室町幕府(公方・大樹)に素直に従おうとしない傾向が強く、
隙あらば自分が次の室町将軍に…!という野心もあったりして、室町幕府としても対応に困る存在だったようです。

その鎌倉公方の補佐役だったのが、「関東管領」。
主に山内上杉氏から排出されるこの役職は、次第に暴れ者(?)の鎌倉公方を諌める役として機能するようになっていきました。

足利成氏の父・持氏もご多分に漏れず、当時の関東管領・上杉憲実と衝突を起こして(永享の乱)敗れ、
不満を抱いた鎌倉公方寄りの関東国衆たちによって永享12年(1440)に持氏の遺児を担いだ合戦が起きます。(結城合戦)

この合戦も鎌倉公方方は敗北し、結果として持氏の遺児たち三兄弟は処刑されたのですが、生き残った者もいました。
乳母の兄の住職を頼って信濃の大井氏の元へ逃れていた成氏(当時は万寿王丸)や、その兄弟たちです。

すんでのところで処刑を免れた成氏の弟・定尊(じょうそん・当時は「乙若君様」)は
(従来、処刑を免れた「乙若君様」が成氏であると言われていましたが、『享徳の乱と太田道灌』『古河公方と伊勢宗瑞』によると弟の定尊という説が有力だそう)

※信濃大井氏は、武田信玄の生母の実家でもあります。

「鎌倉公方」から「古河公方」へ

父・持氏の「永享の乱」や「結城合戦」のごたごたのあと、11歳にして元服し成氏を名乗った万寿王丸は信濃から鎌倉へ帰還し、幕府から許されて「鎌倉公方」を名乗ります。

このままうまく収まるはずもなく、就任早々、結城合戦で所領を奪われた鎌倉公方方の武士たちと、
結城合戦で勢力を伸ばした山内上杉氏・扇谷上杉氏の家宰「長尾氏」「太田氏」の衝突が起こりました。

長尾氏・太田氏と言われてピンときた方もいると思います。
当時、山内上杉氏の家宰は長尾景春の祖父・長尾景仲が、扇谷上杉氏の家宰は太田道灌の父・太田道真がつとめており、
急速に主家を上回るほどの勢力を拡大しつつありました。

結城合戦で奪われた鎌倉公方の所領は、長尾氏・太田氏が力づくで横領してしまっており、成氏方の武士は武力をもってこれを取り返そうと動きます。
また、武力でなんともならない部分については成氏が寺社領の徳政令を実施するなどで対応し、
これがもとで関東管領・上杉憲忠と成氏の間には対立が生じました。

業を煮やした成氏は鎌倉公方方の国衆と示し合わせて上杉憲忠を殺害。
この時成氏に協力したメンバーは、結城成朝・武田信長・里見義実など、
後の北条氏康の時代に関東争乱に深く関わる大名家も含まれていました。

これにより山内上杉・扇谷上杉氏と鎌倉公方方で武力衝突が起きます。
抗争のため一時的に古河に拠点を移した成氏でしたが、鎌倉にはなかなか戻ることが出来ず、
その間に享徳4年(1455)、今川範忠(今川義元の曽祖父)によって鎌倉が占拠されてしまったため、
そのまま成氏は古河を本拠として活動を続けることとなりました。

「古河公方」の誕生です。

そしてこれが、30余年に渡る享徳の乱の始まりでもありました。

・Youtubeで公開されている非常にわかりやすい享徳の乱の解説動画

関東管領・上杉憲忠の暗殺「朝敵・足利成氏」

関東管領・上杉憲忠を殺害したことにより、成氏は室町幕府によって「朝敵」として認定されることになりました。
「朝敵」とは、「朝廷・天皇に反抗する勢力」という意味です。

日本の政権というのは、名目上朝廷を上に戴く形で成り立っているので、
討伐したい敵対勢力のことを「朝敵」に認めてもらい、公然と討伐することができるようにしてもらっていました。
いわゆる、「大義名分」です。

「朝敵」に指定されてしまうと、許されるまで「絶対的な悪」として認定されるため、非常に苦境に立たされることになるものでした。

この「朝敵」制度、のちに越後守護代の長尾為景が政敵を追い落とすために利用した口実でもあります。

成氏は、この先30年を、「朝敵」指定を解除してもらうために戦い続けることになります。
幕府軍である関東管領・上杉氏と戦いつつ、水面下では彼らや周辺守護大名に「幕府へのとりなし」を交渉するという、
一件複雑な政治工作が続くことになりました。

長尾景春の乱と成氏

そうこうしている間に、文明9年(1477)、山内上杉氏の家宰の交代に伴って不満が噴出し、
長尾景春が五十子陣を攻撃したことから「長尾景春の乱」が幕を開けます。

五十子陣は当時、山内上杉氏・扇谷上杉氏が対古河公方用の陣として拠点としていたもので、
在陣期間も数十年にわたるなど相当に長く、出入りする人口も相当だったようです。
当時の関東の文化的中心地だったという説もあります。

↑五十子陣の位置
(埼玉県本庄市東五十子字城跡736ー1「二番館(城山館)」というビジネスホテルや「てんぐ茶屋」あたりが本曲輪だったようです。
公園の南側には「ほんじょうかるた」という五十子古戦場についてのかるた石碑もあります)

山内上杉氏・扇谷上杉氏を敵に回した景春は、成氏に助力を求めました。
上杉氏の手の内をよく知る景春を成氏は迎え入れ、時に援軍を出すなどして助力。

しかし、扇谷上杉氏の家宰・太田道灌の活躍もあり、景春の乱は次第に終結に向かうこととなります。

ちなみに、戦国大戦の「1477 破府、六十六州の欠片へ」「1477~1615 日ノ本一統への軍記」の1477年は、景春が五十子の陣を攻撃した時のことを指しています。
セガ的には「長尾景春の乱」が戦国の始まりという認識なのかもしれません。

都鄙和睦と成氏の引退

文明10年(1478)には室町幕府による古河公方府の承認、いわゆる都鄙和睦(とひわぼく)をとりなすことを条件とした上杉氏との和睦が成立します。

これにより、成氏の後ろ盾を失った長尾景春は公然と討伐令を掲げた太田道灌に蹴散らされることとなって行き場を失い、しばし潜伏することに。

しかし、両上杉氏だけでは室町幕府に有力な外交チャネルがなかったためか都鄙和睦を成立させることは叶わず、
成氏が一度見捨てた長尾景春を再支援したり、越後守護・上杉房定(関東管領・上杉顕定の父)の仲介を得ることで、
文明14年(1482)11月、ようやく都鄙和睦が成立。

念願であった都鄙和睦が成立し朝敵の指定が解除されると成氏は隠居。
古河公方の座を嫡子・政氏に譲ります。

死に臨んでの成氏の遺言を以下に再掲します。

「我れ空く成行くとも、秘計を廻らし敵を打従へ、再び鎌倉に還住し、関八州を手に属せば、中々無双の孝行なるべし」
(鎌倉公方九代後記)

成氏は、最後まで鎌倉への帰還を望んでいたようです。

都鄙和睦が成立した後も関東の争乱は続き、政氏はときに山内上杉氏、ときに扇谷上杉氏と味方を変えながら、戦いを続けていきました。

足利成氏と長尾景春

戦国大戦には足利成氏と長尾景春の間に「戦国の乱世、開闢」という絆(同時使用することで自動的に得られる副効果)が設けられています。
効果は「兵力+3~5」。

絆の説明文は以下のとおりです。

既存の秩序など、すでに無用。関東に乱世を呼び込んだ二人。

長尾景春の乱までは敵として、景春の乱以降は共闘関係として歩んだ二人の絆ですが、騎馬・鉄砲という微妙に使いづらいのが難点ですね。
絆…という一言では表しにくい、なんとも言えない縁の二人です。

足利成氏と本庄時長

戦国大戦の群雄伝・武将列伝第十四章・長尾為景伝2話「下剋上」に登場する本庄時長と、足利成氏にはちょっとした接点があります。
それが、長禄3年(1459)に起きた「羽継原の戦い」(はねつぐはらのたたかい)。

羽継原の戦いは古河公方と山内上杉氏の戦いですが、山内上杉氏の援軍として越後上杉氏も援軍を派遣しており、その中には本庄時長ら揚北衆(北越後の国衆)も含まれていました。

合戦は古河公方の勝利に終わりましたが、戦後に室町幕府には功績が山内上杉氏・越後上杉氏を通じて報告され、時の室町将軍・足利義政の感状が下賜されています。
その中に、本庄三河守宛ての感状があり、この本庄三河守は時長と比定されています。(時長の父・房長という説もある)

もしかしたら、戦場のどこかですれ違っていたのかも…?

↑羽継原の戦いについては、本庄時長の生年について考えてみた記事に詳しく書きました。参考にどうぞ。

古河公方・足利氏のその後

成氏死後の古河公方家は政氏と政氏の子・高基の内紛、
さらに高基とその弟・義明の争いを経て、義明が小弓公方家として分裂。

小弓公方家を討伐するため高基の嫡子で古河公方を継いだ晴氏は、
北条早雲(伊勢宗瑞)の二代目として勢力を伸ばしつつあった北条氏綱の力を借りることとなり、
その後、古河公方に対する北条氏の影響力が増して晴氏は氏綱の娘を娶ることになりました。

しかし、北条氏の当主が北条氏康に代わると、河越合戦で山内上杉・扇谷上杉家に味方したことから、両上杉氏と共に敗退。
戦後、北条氏に実権を握られることとなり、衰退します。

北条氏が関東管領であるために神輿として担がれた足利義氏が亡くなると、嫡子がいないため古河公方家はあわや断絶の憂き目にあいますが、
断絶を惜しんだ豊臣秀吉のはからいで跡を継いだ娘の足利氏姫が喜連川家として存続。
喜連川氏は小弓公方の末裔と縁組し、明治維新まで別格の扱いとして家名を保ちました。
明治維新後は足利に姓を戻し、現代まで家は続いています。

参考書籍

・成氏が戦い抜いた享徳の乱の解説本(読みやすい)

著:山田 邦明
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・足利成氏が登場している数少ない小説(主人公は長尾景春)

著:伊東 潤
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・成氏を含む古河公方家の成り立ちと北条氏の動向(ちょっと玄人向け)

著:則竹 雄一
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・成氏を含む古河公方家の成り立ちと北条氏の動向その2

著:黒田 基樹
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・成氏と対立していた上杉顕定の解説書

著:森田真一
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・成氏の手紙などをチェックしてみたい方→「戦国遺文 古河公方編」