戦国大戦にカード追加されたこともあって、シャクシャインについて興味がわいたので、いろいろと調べていました。
いざ調べてみると、教科書的な説明とはまるで異なった実態がわかってきて、非常に面白いことがわかりました。
以下、調べものの簡単なまとめログを残しておこうと思います。
シャクシャインの戦いに関する情報の現状
調べてみた結果ですが、おおむね以下のとおりのような状況でした。
・漫画サイト「戦譚シャクシャイン」が非常にわかりやすく簡潔にまとめている
・上記漫画サイトおすすめ本『アイヌ史を見つめて』でだいたいのことが網羅されていた
というわけで、『アイヌ史を見つめて』を中心に、調査前・調査後の結果をまとめました。
シャクシャインの戦いに対する一般的なイメージ
・アイヌは原始的な狩猟生活で生きていた
・シャクシャインの戦いはアイヌと和人という民族間の対立、戦争だった
・アイヌ民族は一致団結して和人と戦った
・シャクシャインは和人に抵抗したアイヌの英雄である
教科書や、とくに前知識のない状態でのシャクシャインの戦いに対するイメージは大体こんなところでした。
ところが…
調べた後の印象
さきほどの『アイヌ史を見つめて』など、学術的な観点からシャクシャインの戦いに関して触れている本を読んだところ、これらのイメージは実態とかなり食い違っているということが分かりました。
以下、イメージと違っていた部分を1つずつ見ていきます。
・アイヌと東北の武士は交易で元々深くつながっていた
・アイヌは原始的な狩猟生活で生きていた
一般的に、教科書で習う程度だと上記のようなイメージを抱いていることが多いと思います。
しかし、実際にはアイヌと東北の武士は交易で元々深くつながっていました。
代表的な松前藩にとどまらず、津軽・秋田ともつながりがあったということです。
『ジョン・セーリスの書簡』(1613年)によると17世紀のアイヌの生活は日本からの商品なしでは成立していなかった程だと言われており、
両者は断絶どころか生活に密着した関わりを持っていたことが分かります。
アイヌの生活もそれらの日本商品と深く関わっており、狩猟の民という側面の他にも、
交易の民という大きな特徴を持ち合わせていました。
琉球王国が中国大陸からの中継貿易を行ったのと同じように、アイヌにも中継貿易を行っていた地域があります。
中国・黒竜江(アムール川)下流域のサンタン人との交易がそれです。
サンタン貿易と呼ばれたこの貿易で入手された絹織物(蝦夷錦)は北海道各地の博物館などで見ることができます。
↓サンタン貿易について詳しくは以下の記事を参照。
また、交易というと私たちは現代の貨幣による物品のやり取りや、
物々交換のようなものをイメージしてしまいがちですが、
縄文文化の習俗を色濃く受け継いでいたアイヌではこれらの方式での交易は行われていなかったそうです。
アイヌから贈り物を松前に送り、
松前はその礼として宴を催してアイヌをもてなし、
様々な品を「お返し」として渡す、という方式だったという話ですが、
中国王朝に対する「朝貢」とどことなく似たものを感じますね。
(「朝貢」は室町幕府の足利義満の時代まで日本の朝廷も行っていましたし、琉球王国も貿易の要として長らく行っていました)
これら交易の関係については2016/2/8に出た新書『アイヌと縄文: もうひとつの日本の歴史』を参考にしました。
・シャクシャインと和人とのつながり
蜂起をよびかけたシャクシャインは、シブチャリ(現在の新ひだか町静内)を本拠としたメナシクルの首長。
首長という存在は本州でいうところの藩主や大名などと違い、あくまで交易における顔役という意味合いが強かったようです。
交易の顔役ともなれば、当然交易相手である和人(松前藩)との接触も多くなります。
また、シャクシャインの娘リカセは、越後庄太夫という和人に嫁いでいました。
『アイヌ史を見つめて』では、他首長の例も挙げながら首長クラスの人物は和人と何らかのパイプを持ち合わせていたと書かれています。
・どちらの民族も一枚岩ではなかった
シャクシャインの戦いはしばしば「アイヌVS和人」という構図で語られがちですが、
実態はそう簡単なものではなかったようです。
アイヌに付いた和人もいれば、和人についたアイヌも居たということで、
単純な民族間戦争と一口に言えない複雑さを孕んでいたということですね。
以下にそれぞれの例を挙げておきます。
・アイヌに付いた和人の例
前述のとおりシャクシャインの娘婿で、蜂起にもアイヌ側で加担。シブチャリ籠城戦に参加、のちに松前藩に処刑された。
上記記事によると、他にもアイヌ側に加担していた以下のような和人たちがいたようです。
彼(越後庄太夫)の仲間に、最上の助之丞(または助之進)、尾張の市左衛門、庄内の作右衛門が居たといい、シブチャリ籠城戦後に彼らも松前軍に捕らえられ、処刑されている。
実は秋田藩士で幕命を帯びて松前藩転覆を狙う黒幕説などもあるらしい。なんてこった。
松前藩とは異なる、「金掘」という第三の政治勢力がいて、アイヌ側についていたという事実まではなかなか教科書では触れられていないので、初めて知りました。
・和人についたアイヌの例
シャクシャインと対立していたハエクルの首長オニビシは、1668年にシャクシャインに殺されたが、1669年の蜂起の際オニビシの子や甥はシャクシャインに加担した。
が、このハロウだけは徹底してシャクシャインと対立路線だったそう。
また、石狩地方の首長だったハウカセという人物は、「ウチはウチ、よそはよそ」とばかりに中立を決め込んでいたらしい。
現代では線路も通じている石狩地方も、当時は未知の領域だったとかで、松前藩もうかうかと手出しできなかったそうです。
・シャクシャインの戦いの原因は松前藩による貿易の破壊?
シャクシャインのいた静内地方は当時、砂金の算出により経済的な中心地ともなっていて、多くの富が集まるところであったようです。
自然とともに生きているイメージを持ったままだと想像しづらいですが、当時の静内はまさにゴールドラッシュに湧いていたんですね。
砂金の他にも、鷹などは本州の武士に大変需要があったので、
松前藩はこれらをアイヌを通さず自分たちで全取りできるよう、彼らとの交易をやめる方向に舵取りをし、それがシャクシャインの戦いを引き起こす契機になったと『アイヌ史を見つめて』では書かれています。
つまり、よく言われているような「すみかを荒らされたから」ではなく、「交易したいのに一方的にやめられたから」が原因といったところでしょうか。
『アイヌ史を見つめて』にも、以下のような記述があります。
1668年夏、シャクシャインは金山を訪れた侍に対して会見を希望したがかなわず、それをうらみに思い、蜂起の決意をする。
(P305)
また、同時期に発生したヘナウケの戦いのwikipediaページにも、以下のような記述があります。
元和2年(1616年)から蝦夷が島(現北海道)においてゴールドラッシュが発生し、多数の金掘りが本州から渡って来た[2]。
寛永8年(1631年)にはシマコマキでも砂金の採取が始まっている。
アイヌの支配地域において砂金を採取する場合はそこの首長に対しても対価を支払っていたとされ、シブチャリの首長シャクシャインにも親しい関係の金掘りが存在したことから、ヘナウケも同様の関係にあった可能性が指摘されている。
松前藩的には、アイヌを介さず直接砂金採っちゃいたかったんでしょうかね。
・決起した理由は和人を追い払うためではなかった
「和人を追い払おう!」みたいなスローガンで決起したように見えますが、
『アイヌ史を見つめて』の著者によると「自由貿易の再開」を要求してのことであり、
必ずしも完全に和人を追い払うことを目的にしていたわけではないと言えそうです。
生活に交易品が必需だった、民族間対立でなかったということを考えると、頷ける話ではあります。
シャクシャインの戦いののち、敗れたアイヌたちは停止していた松前の城下交易の再開を勝ち取ったとも言われていることから、
この戦いがただの反乱、そして鎮圧でなかったという見方もあるようです。
・シャクシャインは英雄か?
シャクシャインを表す際の二つ名として用いられる「アイヌの英雄」。
しかし、彼について調べていくうち、果たしてこの形容は正しいのか非常に疑問を覚えるようになりました。
というのも、理由は不明ながら、
お隣のハエクルとの争いにおいて、シャクシャインが誰かを殺害したことが発端になった諍いが結構な頻度で起きているというのがどうしても気になりまして。
・シャクシャインがハエクルのメンバーを殺害に至った事例
1667年 鶴の子をウラカワで獲ったツカコボシ(オニビシ甥)をシャクシャインが呼んで口論の末殺害
1668年4月 ツカコボシ殺害の件で揉めている中、オニビシ弟およびオニビシ本人を殺害
1668年7月 オニビシの仇討に燃えるオニビシ姉を、ウラカワアイヌを派兵して殺害
どんな乱暴おじさんやねん!戦国武将でももうちょっと穏やかやぞ!
と思わず突っ込むくらいの勢いです…
(一概に本州の武士と比べるのもどうかとは思うんですが)
全部が全部本当に殺すつもりだったのかどうかなどは不明な部分もありますが、
こういった経歴を見ていくと、
清廉潔白で聖人君子なイメージのある「英雄」というよりも、
豪放磊落で面倒見はいいが時に勢いに任せて残虐な行為も辞さない「豪傑」といったほうがしっくりくるのでは?と個人的には思う次第です。
変にイメージだけで祭り上げられているより、実態を知ったことでかえって人間味のある魅力的な人物に感じられるようになりました。
面白いもんですね。
『アイヌ史を見つめて』の「シャクシャイン一代記」でも、以下のように評されています。
実際のシャクシャインは野性的、挑戦的、現実的で、ときには冷酷に見えるくらいの人物だった。
そして、日本の商品経済がアイヌモシリに入り込もうとするこの時代、その中を自由自在に渡り歩いた。
(P326)
また、信憑性についてはあやしいものの、豪傑どころか腹の中真っ黒なシャクシャイン像、というのもあるようなので、一応以下に掲載しておきます。
・ブラックなシャクシャイン像
『津軽一統志』では、疱瘡で死んだのを松前に毒を盛られたのではと噂が立っていたウトウ(オニビシ姉婿)に、
あろうことかシャクシャイン本人が毒を持ったことにされています。嘘だろオイオイ…
他サイトでも、
「松前は我々の絶滅をたくらんでいる。今後の商船の貨物には
(引用元サイト閉鎖?)
毒が入っている恐れがある。 全ウタリは力を合わせ、シャモ(和人)を
殺し、米・味噌を奪って兵糧にすること。 アイヌモシリ(蝦夷地)から和人を
追い出し、我々のモシリを取り戻そう。
参戦しないコタンはシャクシャインが攻撃する」
という書き方をされていて、これではまるで決起を呼びかけたというか脅しに近い物を感じます(笑)
(なお、この言説は松前藩が幕府に提出した『蝦夷蜂起』を元にしていると思われます。幕府への提出書類のためか、すべての非がシャクシャインになすりつけられているに近い書き方ということなので、鵜呑みにしないほうがいいかもしれません)
シャクシャインの戦い=アイヌ戦国時代の始まり?
完全にイメージでしかないのですが、オニビシのハエクルとシャクシャインのメナシクルの争いはどことなく戦国の国衆同士の争いに似ている気がするように思います。
血縁を軸にした小規模な領域争いから、徐々に広域紛争に広がっていくあたりが特に…
仲裁に乗り出してくる戦国大名が松前藩ひとつでなく2通りあったらさながら上杉VS武田の代理戦争みたいなことになってたのかもしれない。妄想ですが。
シャクシャインの戦いの後、自由貿易を失ったアイヌたちは富めるものと貧しい者が生まれ、富めるものは自らの宝物を他の部族から守るためにチャシを築くようになっていったそうな。
この流れ、さながらアイヌの戦国時代の始まりのようにも見えてこないでしょうか。
(チャシに関する記述は前述の『アイヌと縄文』のほか、手短ですが『図解 戦国の城がいちばんよくわかる本』にも出ています)