太田資正の義父・難波田憲重(なんばたのりしげ)河越合戦で敗れた扇谷上杉氏最後の守護神

歴史・文化///
難波田憲重の生涯

犬の逸話で有名な埼玉の戦国武将・太田資正の義父(嫁の父)、難波田弾正(善銀/憲重)についてちょっと調べてみたのでまとめておきます。

河越合戦で敗れた扇谷上杉氏最後の守護神とタイトルにつけたとおり、彼は戦国関東で急速に勢力を伸ばしていた小田原北条氏に抗い、河越合戦(河越夜戦)を仕掛けた張本人なのですが、憲重が敗れたことにより扇谷上杉氏は衰退の一途をたどることになりました。

読みづらいですが姓は「なんばた」あるいは「なんばだ」と読むらしい。「なばた」とも読むようです。

調べ物に使ったのは『扇谷上杉氏 (シリーズ・中世関東武士の研究)』という本。扇谷上杉関係の論集本です。
難波田氏の所しか読んでいないまま返却期限が来てしまったので、それ以外の部分はまた読んだ折にでも書けたらと思います。
ちなみにこの本、実は難波田氏について載ってるとはまったく知らずに手に取りました…

難波田氏についての論文「国人難波田氏の研究-その存在形態を中心に-」は、第2部の2番目に収録されています。
元は1991~1992の『埼玉史談』に掲載の論文だったそう。
著者は大圖口承という方です。

創作に使えそうな情報や逸話を中心にピックアップしてみました。

難波田氏の出自

・武蔵七党のひとつ、村山党金子氏の出
武蔵七党とは、平安時代末~鎌倉・南北朝ごろに武蔵国(現在の東京都周辺)で活躍した、同族の武士集団のこと。
七党にどの姓が含まれるかは諸説あり、村山氏がふくまれないパターンもある。

村山党の本拠地は現在の入間川付近(武蔵国多摩郡村山郷)とされていて、現在の埼玉県入間市金子を領地とする一族が金子氏として分派した。
金子氏は関東管領上杉氏の配下である武蔵国守護代・大石氏に属していたが、河越夜戦後は小田原北条氏に属した。

難波田氏は金子家範の長子、難波田高範が難波田小太郎を名乗ったことで始まったとされている。

埼玉県入間市金子の地図はこちら。

・本領は難波田郷
現在の埼玉県富士見市上・下南畑周辺。

名字の難波田は、南畑が変化したものかも。

本には「私営田経営を主軸とした中世的性格」の村落・領主であったと書かれている。

・南北朝の時に足利直義についたため、所領は一時没収され、鶴岡八幡宮のものになっていたことも
難波田弾正のころようやく本領として取り戻した模様。

難波田弾正の経歴

初名:正直、後に憲重(のりしげ)を名乗る。出家後は「善銀」(ぜんぎん)

・扇谷上杉家の家臣
相模守護の配下、という扱いらしい。
道灌や上田氏が健在のころは、表舞台には殆ど出てこない。
その後は奉行人、松山城の軍事指揮官、家老としてステップアップしていく。

・のちに松山城主となり、最後まで扇谷上杉家に仕えた
北条早雲の調略により家老・上田家が離反したあと、松山城を預かる。
これは、難波田家が上田家と姻戚関係にあったからという。

松山城は地図で言うとこのあたりです。

【松山城へのアクセス方法】

松山城は現在、「国指定史跡 松山城」となっていて、武蔵丘短期大学の横にあります。

武蔵丘短期大学のアクセス方法がわかりやすかったため、以下に引用します。

東武東上線「東松山駅」池袋から快速で約52分
東口3番バス乗り場から「免許センター」、または「鴻巣駅」行きバスで約7分
JR 高崎線「鴻巣駅」
上野から快速で約44分
東口ロータリーバス乗り場から「東松山駅」行きバスで約20分
関越自動車道
「東松山インターチェンジ」を降りて熊谷方面へ約1km
「青鳥交差点」を右折
国道17号 東京・さいたま市方面から熊谷市方面へ
「鴻巣駅」手前「天神2丁目交差点」を東松山駅方面に左折後約10km
アクセス|学校法人 後藤学園 武蔵丘短期大学 より)

こちらのページにはマップも掲載されているので、松山城へお出かけの際はチェックしてみてください。

・娘を太田資正に嫁がせ、難波田家を継がせた
度重なる北条との合戦で、息子を全て失っていた善銀は、
老臣広沢忠信の勧めもあ1541年10月に娘を太田家の次男資正へ嫁がせることを決断。
資正は1533年に太田家を継いだ兄・資時と不仲だった。

その資時が1547年に死ぬと資正は太田家を継いだ。
松山城には善銀の甥で、元松山城主上田氏の庶流にあたる上田朝直が入ることになった。

ちなみに資正に嫁いだ難波田氏女は若くして亡くなったとされる。
(資正の嫡子氏資の母は彼女だが、すぐ後に生まれた政景の母は大石氏)

・河越夜戦の時に、乱戦の中古井戸に落ちて死んだという逸話がある
難波田隊は東明寺口に布陣していた扇谷上杉家の主力。
詳しい話は軍記『河越記』に載っているそう。

東明寺(正式名称は稲荷山称名院東明寺/いなりさんしょうみょういんとうみょうじ)には現在、河越夜戦の碑が建立されています。

川越夜戦跡(東明寺)-埼玉県川越の観光・お出かけ・地域情報サイト カワゴエール
見やすくわかりやすい観光ガイドページ

河越夜戦跡地へは、東武バス「喜多町」(徒歩3分)および小江戸名所めぐりバス「裁判所前バス停」(徒歩5分)が最寄りバス停です。
西武新宿線「本川越駅」、JR川越線「川越駅」東口、東武東上線「川越駅市」からは徒歩20~30分弱。
車の場合は関越自動車道「川越IC」が近いです。

難波田弾正は何をした人?逸話とか

・扇谷上杉家の最終兵器、最後の砦
太田道灌を失い、上田氏を含む多くの家臣が離反するなかで台頭した難波田憲重は、扇谷上杉家の最後の頼みの綱となった。
河越城が北条氏綱(小田原北条氏2代目当主、氏康の父)に落とされてからは、扇谷上杉家当主は難波田氏の松山城で保護されていた。

・氏綱の河越攻めのおり、追ってきた武将に歌を詠まれて、歌で返した逸話がある
こちらも『河越記』の記述による。

・河越夜戦の時、関東管領山内上杉と古河公方を説得して北条を包囲させた張本人
小野因幡守と共に、「旧秩序体制の回復」を目的とし、諸軍の説得にあたっていた。
善銀の初名は「正直」と言ったが、山内上杉憲政を説得した際、彼の1字を賜って「憲重」と改名している。
戦後、北条氏康が古河公方の老臣・簗田春助にあてた手紙にも、「この戦の首謀者は難波田弾正と小野因幡守」と書かれているそうな。

著:基樹, 黒田
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完全に余談ですが、太田資正の伝書犬/軍用犬の逸話は史実に照らすとけっこう誇大に書かれてたりする可能性もあるみたいです。
参考:「史料研究:太田資正の「犬の入れ替え」